『北越雪譜』(初編 巻之上)に、【修羅】の文字が出てくる。
|| 越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
|| 江 戸 京山人 百樹 刪定
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|| ○雪道(みち)
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||春は雪凍(こほり)て鉄石(てつせき)のごとくなれば、雪車(そり) 又雪舟(そり)の字をも用ふ を以て重(おもき)を用ふ。里人(りじん)は雪車に物をのせ、おのれものりて雪上を行(ゆく)事舟のごとくす。雪中は牛馬の足立ざるゆゑすべて雪車を用ふ。春の雪中重(おもき)を負(おは)しむる事牛馬(うしうま)に勝る。雪車の制作(せいさく)別に記す。形大小種々あり。大なるを【修羅(しゆら)】といふ。雪国の便利第一の用具也。しかれども雪凍りたる時にあらざれば用ひがたし。ゆゑに里人雪舟途(そりみち)と唱ふ。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.17〜20)
この、修羅の事である。簡便辞書にも載っている。
>>運搬具である。大石などを乗せて、地面にコロを設置して、その上を滑らせて運搬する装置。雪上や斜面では、自重でもすべる。
(簡便辞書より抜粋)
というような説明以外に、面白い記載を見つけた。
何故に〔しゅら〕と呼ぶのかというと、(阿)修羅は帝釈天に戦いを挑む。つまりたいしゃくを動かすのです。そうです、大石(たいしゃく)を動かすところから命名されたのだそうですよ。
奥会津では、春の雪山などで、木を山から里に下すのも修羅で運ぶという記載も見つけた。
会津にこだわる中村彰彦氏の小説の中にも出てきます。
土塁はいずれ石垣造りにされる計画で、その石は東山の慶山(けいざん)村から伐(き)り出されることになった。会津は岩代国(いわしろのくに)ともいわれるように、盆地周辺には岩盤のしっかりした高地が多い。
慶山村、若松城下、越後街道をむすぶ線には人夫たちがびっしりと立ちならび、コロや修羅車によって巨石が運ばれてくると声をそろえて引き縄を引いた。普請奉行とその手代たちは万一の事故にそなえ、柿色の手拭い鉢巻姿で騎乗してその近くを駈けまわる。
《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》
『東に名臣あり 家老列伝』中村彰彦・文春文庫より(P.92)
実は、この修羅は、『北越雪譜』の別の章で「大持(だいもち)引き」として、出てくるのです。
この抜書きをしている同じ本「校註 北越雪譜」野島出版の178頁に、「○橇(そり)」という章立てがある。
そこに載っている文章の内容と図は、奥会津昭和村大芦でしばらく前から行事として復活させた「デエモチ(大持)引き」を髣髴させるのです。
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